津軽海峡を挟んで二つの鉄道の未成線があることはよく知られています。今回紹介の未成線区間はその青森県側にあたります。経緯をウィキペディアから引用します(以下引用)。
『大間にある海軍の要塞強化工事に伴う資材運搬用として、むつ市の下北駅から大間までを結ぶ鉄道として計画された。後に戦争による空襲で青函連絡船が被害を受けることが想定されたため、津軽海峡で最も幅の狭い大間~戸井間を代替航路として利用することが計画され、これに接続する路線として建設されることになった。1937年(昭和12年)に工事が開始され2年後の1939年(昭和14年)に大畑線として下北~大畑間が開通、大畑以北も工事が進められ路盤の大半が完成、終点の大間以外では駅も建設され僅かな未着工部分を残すのみとなったが、1943年(昭和18年)に戦時中の資材不足により工事は中断、その後再開されることなく放置されていた。青函隧道計画が持ち上がった際に東ルート案ではこの区間を通ることになっていたため、それまでは地図には予定線として記載され工事再開の備えがあったようだが、1968年(昭和43年)に西ルートに決定してからは予定線として記載されることもなくなった。東ルートに決定していれば恐らく開通していたと思われる。海峡を挟んで接続する予定だった戸井線も同じく未成に終わった。』(引用おわり)
つまり、津軽海峡を挟んだ二つの未成線には関連があり、どちらも戦争に翻弄された挙句に見放されていたわけです。
開通を見た大畑から険しい山越えをして急坂を降りたあたりから、昔ながらの家並みのが始まります。
国道を走っているとその家並の中に現れるのが写真の巨大なアーチの連なりです。
ここは、大間線遺構の代表的なものとして様々な本にも取り上げられてきた、通称:二枚橋橋梁でです。
アーチの連数は7連あり、なかなかの威容を誇っています。
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00.8.14 青森県 二枚橋 |
大間の未成線の線路跡ではこの橋をはじめ、コンクリートの多脚アーチ橋が多く存在しており、いかにも「戦争中の工事線らしい」景色を醸し出しています。
ここに限らす、戦争中に建設された鉄道の橋梁の多くがあえて工期と手間のかかるコンクリートアーチを多く利用したのは、戦争中の鉄材不足が原因になっています。
また、その芯材には資材難から、木筋・竹筋のコンクリートも部分的に使われていると言われています。
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00.8.14 青森県 二枚橋 |
海側国道から見たアーチ橋。
鉄橋直下の住宅も北国の海辺によく見られる素朴な建物です。
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00.8.14 青森県 二枚橋 |
アーチ橋完成から撮影時で既に60年が経過し、かなりコンクリートも痛みが発生しています。
この訪問の翌年の2001年、国鉄から見放されて全国でも珍しいバス会社が継承した3セク、下北交通大畑線も廃止となって、この鉄橋の活用の可能性は100%無くなることとなりました。